世界遺産・熊野古道より川の参詣道「熊野川・川舟下り」川舟運航約款 和歌山県新宮市熊野川町 熊野川・川舟センター

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世界遺産の熊野川について

世界遺産:紀伊山地の霊場と参詣道より熊野川を観る。

●あらゆる人々を受け入れる聖なる地・熊野

深く険しい山々が幾重にも連なり、その山間を縫って幾筋もの支川を集めながら近畿地方最長の熊野川が流れる聖地、熊野。近寄り難い厳しい大自然のこの地に、人々は神々を見いだしました。

平安時代以降、日本全国から様々な人々が惹きつけられた熊野三山。「蟻の熊野詣」と呼ばれるほどの多くの人々が訪れたのは、熊野の神が悩みや苦しみから人々を解放し、さまざまな願いをかなえてくれると信じられてきたからです。また、老若男女、身分や貧富の差などを問わずあらゆる人々を受け入れる包容力に魅力を感じたからではないでしょうか。その包容力は自然崇拝、浄土信仰、密教、修験道といった多神教的な性格によるものと思われ、それらを融合しながら独自の宗教世界を生み出してきたといえます。

●熊野三山と聖なる地・熊野川

熊野三山と総称される熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社。もともとはそれぞれ独自の信仰を持っていたようです。三社の信仰の起源はそれぞれ自然崇拝からはじまったのではないかと考えられますが、特に熊野本宮大社と熊野速玉大社は、熊野川に対する深い信仰があったと思われます。熊野本宮大社はもともと大斎原と呼ばれる熊野川、音無川、岩田川の合流地点の中州に鎮座していました。それは、熊野川を神聖な場所として崇め、洪水鎮圧のために祀っていたのではないかと考えられます。

また熊野速玉大社は熊野川の河口付近に鎮座していることから、川を神として崇敬し、かつ川の氾濫を鎮める役割を担っていたのではないかと考えられます。速玉という名前が玉のように早い流れを意味することでも熊野川との関係がうかがえます。さらに速玉大社の例大祭である御船祭は、熊野川河口から約2km上流に位置する御船島を神の宿所として、その周囲を神幸船で回ることにより魂を鎮める神事と考えられています。

このことからも熊野川は神が往来する場として捉えられ、神聖視されてきました。
そして、熊野三山は、地理的に近かったことと、いわゆる本地垂迹説(仏や菩薩が人々の救済のために神の姿を借りてこの世に現れたという考え方)に基づいた神仏習合の思想の影響を受けて、互いに神仏を祀り合い、関係を深めるようになり、巡拝が行われるようになりました。

●重要な参詣道、熊野川

熊野川は熊野三山への重要な参詣道でもありました。

参詣道には、大きくは京都、大坂から紀伊半島西部の海沿いを歩き、田辺を経る「紀伊路」、田辺から山中にわけ入り、熊野本宮大社へと向かう「中辺路」、田辺から海岸沿いを通る「大辺路」、高野山から本宮に至る「小辺路」、伊勢から熊野灘沿いに入る「伊勢路」、また吉野から熊野に通じる山伏の道として「大峯奥駈道」があります。

なかでも中辺路ルートは、上皇や貴族をはじめ多くの人々が利用した、いわば中世までのメインルートです。熊野本宮大社に参拝した後は、熊野川を小型の舟で新宮に下り、熊野速玉大社へと参りました。そして帰りも同じルートを辿り、熊野川を遡上して本宮へ戻り、都へと帰ることが一般的でした。そうした意味でも熊野川は、熊野参詣の交通の要でした。

●本宮の大斎原から新宮の権現川原まで

古代・中世においては、本宮から新宮まで、4、5人乗りの小さな舟で、4時間ほどかけて熊野川を下りました。川底が浅かったので大きな船は使えなかったようです。また新宮から本宮への上りは倍近く時間がかかりました。上皇や貴族などは、出発の日どりを陰陽師などの占いによって決められていましたので、雨が降っても船出しましたが、時には大水でやむなく欠航したり、また沈没したりする者もありました。その分、船頭の操船技術は向上しました。本宮の発着場は大斎原の前の川原で、新宮は熊野速玉大社に近い権現川原に横付けしました。途中ほぼ中間に位置する楊枝川原で休憩を取りました。

船の運航は本宮や新宮の神社を運営する人々が中心となって行っていたようです。南北朝以降は田長付近や浅里などに関所が設けられ、三山の運営や熊野川の整備の資金に充てられました。
また下り舟の舟賃は、貸切で1貫100文との江戸時代中期の記録があります。

●地域の暮らしを支えてきた熊野川

熊野川は参詣道としてだけでなく、熊野の人々の暮らしを支える基盤でもありました。熊野川流域の木材や木炭は良質で、江戸時代から昭和初期にかけて全国に流通しました。多くの農林産物などが、熊野川を利用して、河口の新宮へ運ばれ、各地に出荷されたのです。現在の新熊野大橋付近には川原町と呼ばれる集落ができ、流域の人々の交易の拠点として栄えてきました。